研究概要
1.はじめに
今年の6月20日から22日にかけてブラジルのリオデジャネイロにおいて「国連持続可能な開発会議」いわゆる「リオ+20」が開催され、地球環境の保全と経済的発展の両立を目指す「我々が望む未来」と題した53ページに及ぶ宣言を採択して閉幕した。新聞報道に拠れば会議の意義と宣言の内容について様々な立場から批判や不満が多く表明され、会議の成果に疑問符が付されているが、エネルギー、食糧安全保障、飲料水確保、海洋保全などの分野で各国から多額の拠出表明があり、少なくとも「持続可能な開発という目標で合意できた」(オーストラリア、ギラード首相)との評価もある。今日の地球環境問題が、経済成長と貧困、資源配分などの問題と直結していることを改めて明瞭に示した会議であった。
「リオ+20」の呼称は1992年にリオデジャネイロで開催された地球サミットから20年後にあたることを指している。地球サミットでは地球環境の保全と開発に関する重要な二つの条約が採択された。気候変動枠組み条約と生物多様性条約である。前者は地球温暖化防止条約あるいは温暖化防止条約とも呼ばれ、大気中の温室効果ガス濃度の増加を抑制するための具体的な規制措置等を規定した京都議定書への道筋をつけたものである。その後、大気中の二酸化炭素濃度の増加に伴う海水のpHの低下、いわゆる「海洋酸性化」の顕在化という新たな問題が認識されるようになり、気候変動枠組み条約が目的とする二酸化炭素濃度の制御は、海洋環境の保全の観点からさらに重要となっている。後者の生物多様性条約は、生物多様性の包括的な保全と生物の持続可能な利用、そして利用から生じる利益の公正衡平な配分を目的としている。両条約は地球環境問題に関わるその後の国際的な取り組みの基本的なフレームとなり、この会議を契機として地球温暖化と生物多様性に関する社会的関心が高まってきた。
2.生態系の恵み
こうした背景のもと、過去20年間に地球環境と生物多様性に関して、重要な科学的貢献が多数なされてきた。本稿に関して特筆されるのは2001年から2005年にかけて国連環境計画を事務局として実施された「ミレニアム生態系評価(MA)」1)がまとめた生態系の機能評価である。MAは増大する人間活動が環境の悪化を加速的にもたらし、その結果として絶滅種の増加や移入種による生態系攪乱など生物多様性が損なわれていることを示した。生物多様性の損失は単に生物種の減少ばかりでなく、生態系が人類にもたらす恩恵、いわゆる生態系サービスの劣化を意味する。生態系サービスの概念はCostanzaら(1997)2)がその経済的価値を提示したことを契機に広く知られるようになった。なお、生態系サービスという言葉には、どこか「人間様への奉仕」という響きが感じられるので、ここでは「恵み」としておきたい。「海の恵み」という言葉は、一般には水産物とほぼ同義で使われるが、食料ばかりでなく、呼吸によって絶えず消費される酸素の供給と二酸化炭素の吸収などの大気成分の調節、排水など老廃物の処理や毒物の無毒化など、海洋生態系がもつ多様な機能を内包している。これらの恵みを受けて我々は生きている。MAは生物多様性の損失により我々が受ける恵みが劣化し、生存が脅かされていることを明示したのである。
海の恵みをもたらす海洋生態系の物質循環機能は、20世紀後半までは水産学を含めて科学的関心事の範疇に留まっていたが、近年、社会的にも急速に注目されるようになってきた。海洋生態系がもつ大気組成や気候の調節能や栄養塩循環能などを環境問題の解決策として人為的な介在により積極的に利用しようという動きである。その代表的なものは海洋の物質循環機能を強化して、二酸化炭素吸収能を高めようとするもので、鉄や尿素散布による海洋肥沃化の試みである。現在は研究段階に留まっており、海洋への物質投棄を規制するロンドン条約や、「海洋環境保護の科学的側面に関する専門家会合(GESAMP)」の勧告、2008年の生物多様性条約COP9等において明確に規制されていて、商業的な活動は禁止されている。しかしながら温暖化の緩和策としての気候工学的選択肢として、現在でも議論は続いている。2010年3月には米国におけるアシロマ国際会議において、研究者、行政、NPOなど様々な参加者を集めて研究ガイドラインが議論された。そこで強く再認識されたのは、実施の是非を巡る合意形成の難しさとともに科学的不確実性の大きさである。現段階では、この不確実性を小さくすべく研究推進が必要性であることは大半の関係者の共通認識となっている。科学の世紀と呼ばれた20世紀に萌芽した科学技術の利用に関する倫理的な議論、例えば原子力利用や生殖医学におけるような議論が海洋学・水産学においても生起したと見ることができる。
3.海の恵みの持続的利用
このように今や海の恵みの利用に関して、我々はこれまでとは違う時代に生きている。顕在化しつつある地球規模での海洋環境の変化に対して、海洋生態系やその物質循環がどのように応答するのか、人類が海洋から受けてきた恵みがこれからどのように変化するのか、さらに、持続的発展が可能な海洋利用をどのように図っていくかが、重要な課題になっているのである。これまで、海洋利用の利害調節である海洋ガバナンスの対象は沿岸域に限られてきたが、近年になり外洋域、とくに公海の利用に大きな国際的関心が高まってきた。この背景には、公海の生物資源の利用は自由であるとの1970年代までの暗黙の前提が、近年の海洋生態系機能の悪化と途上国の経済発展などによって急速に崩れつつあること、さらに海底鉱物資源利用、海上風・潮流・温度差発電などの自然エネルギーの技術開発が進み、これらの利用への期待が高まっていることがあげられる。こうした科学的理解と社会・経済的状況の変遷に対応して、海洋利用のための新たなガバナンスの必要性と緊急性が、国際的に広く認識されるようになり、2010年の国連総会で、公海における脆弱な生態系保護の必要性を明示した決議 (A/RES/64/71)と海洋生物資源の国際的な配分問題に関する決議 (A/RES/64/72)がなされている。我が国では2007年施行の海洋基本法が、このための海洋研究の必要性を謳っている。
では、恵みを産み出す海洋生態系の構造と機能について我々はどのくらい知っているのであろうか。残念ながら陸上生態系に比べると我々の知識は極めて乏しい。MAの報告書では、陸域が細かく区分され、各生態系について詳細な情報を使って検討がなされているのとは対照的に、海洋については沿岸域や島嶼域以外は一纏めにされており、生態系機能の評価のための知見が乏しいこと、この傾向が特に外洋域で著しいことを明白に示している。Costanzaら(1997)の解析においても沿岸域こそ汽水域や藻場、サンゴ礁などに細分されて検討されているが外洋に関しては一纏めである。その理由として挙げられるのは、外洋域では解析の対象となるべき熱帯、亜熱帯、亜寒帯などの区分が、海域的に広すぎるため、それぞれの違いを丁寧に見ることができず、結果として生態系の機能評価単位として扱いきれないことが指摘できる。
これに取り組むには、第一のステップとして、海洋を、その生態系と物質循環のまとまりから整合性のあるサブシステムに分けて、サブシステム毎に見ていく必要がある。従来の生物地理学では、極域、亜寒帯、亜熱帯、熱帯、沿岸域等の区系に大雑把に分けてきたが、Joint Global Ocean Flux Study(JGOFS)などに代表される数々の国際的な共同研究プロジェクトなどによる全球的な海洋研究の進展により、生物分布と物質循環のまとまりから、従来知られていなかった海洋区系の存在が次々と明らかになってきた(Longhurst, 2006)3)。こうした区系を単位として、そこでの物質循環のキープロセスや調節因子の解析、さらに長期変動を見ていくことにより生態系の機能評価を具体的に進めることができるようになる。こうした考え方は沿岸域では既に先行して進められている。国連環境計画の大規模海洋生態系(LME)プロジェクトである(Shermanら、2009)4)。世界の沿岸域を64の生態系に区分けし、それぞれについて域内の生態系機能を把握し、人間活動により「得る恵み」と「失う恵み」を経済的な価値観から評価している。このように自然科学的な根拠に基づいて区分けされた海域について生態系評価に取り組めば、恵みを持続的に利用するための方途も考えやすくなる。そして、我が国に海の恵みをもたらしている太平洋でも、これまでに知られていない新たな区系が存在していることが最近になり明らかになってきている(Hashihamaら、2009)。
4.新学術領域研究の立ち上げ
こうした背景のもとで、平成24年から5年間の予定で科学研究費補助金を受けて新学術領域研究「新海洋像:その機能と持続的利用」が立ち上がった。この領域は太平洋を対象海域として、
- 新たな海洋区系を確立して、それぞれの区系における物質循環と生態系の機能を解明する、
- その成果をもとに、人類に様々な恵みをもたらす社会共通資本としての海洋の機能および価値を区系ごとに評価する。従来、機能・価値評価の空白域であった公海に重点を置き、沿岸域および経済水域も評価対象に含める、
- 海洋の持続的な利用のためのガバナンスに必要な国際的合意形成における法的経済的枠組みを提示する、ことを目的としている。
海の多様な恵みを理解してその持続的な利用のために必要な認識を醸成して新たな海洋像を作り出すとの意図である。そのために、物理海洋学、生元素地理、分子生物学的生物地理の3アプローチから整合的な海洋区系を確立し、各区系において物質循環と生態系動態を解明し、いわば太平洋の基本台帳を作る。広域回遊魚を対象に、この基本台帳をベースにして各区系の生物生産力の利用様態を明らかにする。さらに先行研究が極めて乏しい非市場性の価値、すなわち生物多様性に裏打ちされた物質循環が生み出す気候調節機能などの非市場性の価値を明らかにすることにより、その持続的な利用の道筋をつけることを目指している。このように、本領域は、海洋の物質循環、それを担う生態系の構造と機能評価、機能利用のための社会的枠組み、の3分野の研究を融合させるものであり、生物資源としての水産物に加えて総合的に海の生物がもたらす恵みを利用する、いわば新たな水産学を展望している。
1) Millennium Ecosystem Assessment. Ecosystems and Human Well-being: Synthesis. Island Press, Washington, DC. 2005. Link
邦訳:横浜国立大学21世紀COE翻訳委員会責任翻訳.「国連ミレニアムエコシステム評価 生態系サービスと人類の将来」オーム社、東京. 2007.
2) Costanza, R., d'Arge, R., de Groot, R., Farber, S., Grasso, M., Hannon, B., Naeem, S., Limburg, K., Paruelo, J., O'Neill, R.V., Raskin, R., Sutton, P. and van den Belt, M. The value of the world's ecosystem services and natural capital. Nature 1997; 387: 253-260.
3) Longhurst, A.R. Ecological Geography of the Sea, Second Edition. Academic Press, San Diego. 2006.
4) Sherman, K., Aquarone, M.C. and Adams, S. (eds) Sustaining the World’s Large Marine Ecosystems. Gland, Switzerland. IUCN. 2009.
5) Hashihama, F., Furuya, K., Kitajima, S., Takeda, S., Takemura, T. and Kanda, J. Macro-scale exhaustion of surface phosphate by N2 fixation in the western North Pacific. Geophys. Res. Let.2009; 36: L03610, doi:10.1029/2008GL036866