連載
海洋生態系を支える植物プランクトン生産の制御要因を探る
微小な単細胞生物である植物プランクトンは、海洋表層で浮遊しながら太陽光のエネルギーを利用して光合成を行い、二酸化炭素と水から有機物を作り出します。海洋の植物プランクトンの現存量は、陸上植物に比べてはるかに小さいのですが、地球全体の一次生産の約半分を担っており、炭素や窒素などの生物活動と深く関わっている元素の循環を駆動する地球生態系の重要な一員です。植物プランクトンが光合成で作り出す有機物は、動物プランクトンからクラゲ、魚、鯨に至るまでの広大な海洋生態系の食物網を支えているだけでなく、その一部は死骸や糞などの形で表層から深層へ沈降し、深層水中で分解されて溶存の無機炭酸物質に変えられます。このため、植物プランクトンを起点とする海洋の生物活動は、大気から海洋に吸収された二酸化炭素を深層水中に貯蔵する役割も果たしています。
植物プランクトンは、その生体を構成する有機物を合成する際に、海水中から多様な元素を細胞内に取り込みますが、その際に不足しやすいのが窒素、リン、ケイ素です。河口域や湧昇域で活発な植物プランクトンの増殖が見られるのは、これらの元素が高濃度で含まれている河川水や深層水が、光の十分届く表層に供給されるからです。そこで、植物プランクトンによる一次生産の調節機構としては、古典的には光や水温といった物理的要因と、硝酸塩、リン酸塩、溶存ケイ酸といった栄養塩の供給、そして動物による捕食が考えられてきました。ところが近年、これらの要因に加えて、鉄などの微量金属が大きな影響を及ぼしていることが分かってきました。
鉄は、光合成の電子伝達系、光合成色素の合成系、硝酸還元系などに深く係わっており、植物プランクトンが生きてゆく上で必須の元素なのですが、海水には溶けにくく、外洋域の表層水中の濃度は海水1リットルあたり10-10モル(10億分の5グラム)前後と極めて低くなっているためです。しかも、海水中の溶存鉄の大部分は有機配位子と錯体を形成していて、その他にコロイド粒子や凝集・懸濁物などとしても存在することから、鉄の生物生産への作用を考える上で、その物理・化学的な存在形態の理解が重要な鍵となります。我々は、国際科学会議(ICSU)の海洋研究科学委員会(SCOR)に設けられた海水中の金属有機配位子に関するワーキンググループ(WG139)の活動に参加して、海水中における鉄の存在形態とその生物利用能に関する研究を進めています。
植物プランクトンにとって鉄が不足していることは、現場のプランクトン群集を含む表層水を小型のビンに採取して船上で培養し、鉄を添加した場合と何も添加しない場合で植物プランクトンの生長の違いを比較したり、50~100 km2の自然海域に鉄を実際に撒布し、鉄撒布域の内側と外側で生物応答の変化を比較したりして、太平洋の赤道域や北部亜寒帯域、南極海などで確かめられてきました。また、亜熱帯・熱帯の貧栄養海域におけるシアノバクテリアの窒素固定活性も鉄の不足によって制限されていると考えられています。それらの科学的知見を海外の研究者と一緒になって取りまとめ、政策決定者向けの解説として国際社会に提供しています。
また最近では、さらに鉄以外の微量元素やビタミン類の複合的な生物作用にも注目が集まっています。我々の研究グループでは、例えば、北太平洋亜熱帯域の植物プランクトンが窒素源として尿素を利用する際に、ウレアーゼの補因子であるニッケルを必要とすることや、北太平洋亜寒帯域における渦鞭毛藻類の増殖は、鉄とビタミンB12の二つの栄養素の不足によって制限を受けている可能性があることなどを明らかにしてきました。このように実際の海では、窒素や鉄など単一要素の不足による生物生産の制限(リービッヒの最小律)を受けているというよりは、二つ以上の栄養塩が同時に不足していたり、ある種の金属元素の不足が他の栄養塩の取り込みを減退させたりするという、複数の要素が絡み合う「共制限」という状態が頻繁に起こっていると考えられるようになってきました。複数の要素が複合的に作用するという共制限の概念を導入することにより、植物プランクトン群集全体を単一系と見なさず、細胞レベル・群集レベルで何をどの程度シフトさせるのかといったトリガーとしての各調節要素の役割を評価することが可能になると期待しています。
本研究領域を通じて新たに構築される各海洋区系について、物質循環を駆動する海洋表層の生物生産活動の調節機構を解明することが本研究のゴールです。そのために、栄養塩、微量金属、ビタミン、光などの各調節要素に着目し、制限要因としてよりもむしろ植物プランクトンの生産性・群集組成をシフトさせるトリガーとして解析を進めています。また、海中では深度が深くなるにつれて光や栄養塩環境が大きく変化することから、海洋表層と亜表層の生物群集がもつ光合成機能や栄養獲得戦略を対峙させながら、各調節要素の作用機序の違いを含めた水柱全体の生物生産調節機構の総合的な理解を目指します。(武田重信)